ブックタイトルメカトロニクス8月号2020年
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メカトロニクス8月号2020年
46 MECHATRONICS 2020.8 「工作機械」は、金属や硬質プラスチックなどの材料を切削、研削などによって不要な部分を取り除き、必要な形状に作り上げる機械である。先ず、最初にルーツから紹介する。 原始社会には「樹木旋盤」なるものが存在し、工作機械のルーツとも言われる。原理は、木材を樹木と樹木の間に懸け、枝の弾性を利用しながら被加工物の木片を回転させ、貝殻や石器の工具で削ったらしい。 漢語の「機械」という文字は、紀元前300 年代に記された「荘子」外編天地11で初めて用いたとされる。その後、紀元前200年代に記されたとする「韓非子」第15 巻第37篇難二には「機械」と「器械」の記述があり、漢語では「機械」と「器械」は使い分けられていて、前者は“仕掛け”であり、後者は“道具”であったとの解釈がある。1) 木偏になっているのは、木製が常識であったためで、機械製に代わったのは18世紀末のモーズレーによる全金属製旋盤の登場からである。 金属製部品や金型の多くが工作機械で加工されており、機械を作るために必要な機械であることから、工作機械は「マザーマシン」(母なる機械)とも呼ばれ、重要な機械となる。工作機械の受注状況は設備投資の先行指標になるとも言われる。 さて、日本の工作機械の小史をみていくと1871年に遡ることができる。この年に、明治初期の官営の機械製作工場である工部省赤羽工作分局が東京・芝赤羽の旧久留米藩邸跡に開設され、その前身は製鉄寮で、1873 年に赤羽製作所となり、1877 年に赤羽工作分局と改称された。ここで工作機械の試作と開発が開始したのである。表1に示すように様々な試練を経験しながら開発が進められた。 日本が官民挙げて工作機械の開発に本腰を入れ始めたのは、日中戦争の混乱から第二次世界大戦へ突入する時期に自主開発が本格化した。政府は、1938 年に「工作機械製造事業法」を制定し、「工作機械試作奨励金交付規定」を発令し、高品質な外国工作機械の模倣・国産化を図ることを意図した。 1939 年、第二次世界大戦に突入し、1940年になると米国が「対日工作機械輸出禁止令」を発令したために国産化を図る必要性に迫られ、その対策として「最新鋭外国機械の模倣試作令」が発令した。 戦時下の厳しい環境の下で兵器用工作機械の自主開発を進め、第二次世界大戦を戦うことになった。模倣から始まった日本の工作機械業界であった。 一方、米国では1940年代の初期に1軸の運動をプレイバック方式で追従制御したのが最初とされている。それの先鞭を付けたのはJohn T.Parsonsで、ヘリコプターのブレードの加工に、この技術を使うことを考えたという。そして空軍の援助を得てマサチューセッツ工科大学(MIT)とゼネラルエレクトリック(GE)の協力により、1952 年に制御コードを穿孔紙テープで読み込むNC 制御フライス盤が開発された。 この情報を知った東京工業大学精密工学研究所の中田孝教授が同じ物の開発を進める気運が高まり、Scientifi c American Vol.187 No3(1952)に掲載されたMIT の成果報告を手掛かりに文部省の研究予算で徹底調査から始められたという(写真1)。この論文の掲載図を詳細に調べ、虫眼鏡を使って電子回路を読取り、テープの穴のもつ意味について検討したと伝えられている。 市場をみていくと1950 年の朝鮮戦争を契機として急激に市場が回復し、工作機械の内需は国内生産額を上回り、再び、工作機械が輸入されるようになり、図1に示すように1955 年は輸入依存度が58 %にもなった。2) 1952 年は技術提携元年とも称され、約30 年間で欧米工作機メーカーとの間で160件を超える技術提携が実施された。旺盛な国内需要に対応するために提携することによって短期間で技術提携機を製作して国内需要に対応することであった。これらの技術提携によって提携先のブランド名も利用することによって日本の工作機械に対するイメージを払拭することができるなど大きな効果をもたらし、世界市場で勝負が出来るまで成長し、輸入依存率は徐々に低下し発展した。 1953~1955年に、「工作機械等試作補助金」を交付して国内で未開発の機械61機種の高精度工作機械試作に対して試作費用を補助するために、試作補助金を交付するなど政府からの支援が検討された。 池貝鉄工製の油圧倣い旋盤を改造した数値制御を実施するNC 制御旋盤が1956 年度に完成した。これが我国最初のNC工作機械となった。 そして通産省は、この技術成果を産業界に普及することを目的として特別研究に取り上げ、フライス盤とジグ中ぐり盤の開発が1956 年から行われた。第2回 工作機械の市場動向市場の生産統計とそのヒストリーちょっと気になる連 載表1 日本の工作機械の小史 写真1 Scientific American 1952年9月号年 度工作機械の歩み1871 年工部省赤羽工作分局(元 製鉄寮で1873年に赤羽製作所と改称し、さらに1877年に赤羽工作分局と改称)で工作機械の試作と開発が開始する1883 年赤羽工作分局は工部省から海軍省に移管された1889 年我が国最古と言われる旋盤の製作工場が操業1900 年代前半日露戦争の頃、産業として飛躍を遂げる。東京の砲兵工廠のある製造部門では、既に半数以上の設備が国産の工作機械であった1938 年「工作機械製造事業法」を制定「工作機械試作奨励金交付規定」を発令し、高品質な外国工作機械の模倣・国産化を図る1940 年米国が対日工作機械輸出禁止令を発令「最新鋭外国機械の模範試作令」を発令し、兵器用工作機械の自主開発で第二次世界大戦を戦う1950 年 朝鮮戦争を契機として急激な市場の回復による工作機械の内需の伸びは国内生産額を上回り、再び工作機械の輸入額を増大させる結果となった1952 年マサチューセッツ工科大学(MIT)がNC 工作機械を開発(真空管が3,000本以上使用された)欧米の工作機械メーカーとの間で技術提携を開始し、約30年間で160 件を超える技術提携を実施1953 年「工作機械等試作補助金」を交付して国内での未開発機械61 機種の高精度工作機械試作に対して試作補助の交付を1955 年まで実施した1955 年工作機械の輸入依存度は57.7%となる1956 年「機械工業振興臨時措置法(機振法)」を制定機振法に基づき「外国工作機械性能審査事業」を発令し、官民一体となって外国工作機械の分解・性能調査を実施世界で初めて池貝鉄工製の油圧倣い旋盤を改造したNC制御旋盤(タレットパンチプレス)の実用機を完成1958 年 牧野フライス製作所と富士通信機(現 富士通)が国産初のNC工作機械を共同開発し、大阪見本市で展示1959 年3月 我国独自のNC 工作機械が完成し「Jidic」と名付けられた1960 年国産初のマシニングセンター1970 年代中頃 NC 旋盤の普及本格化1970 年代後半マシニングセンター急増。ターニングセンター登場1980 年フレキシブル・マシニング・センター(FMS)が登場1980 年代前半 縦型マシニングセンター普及(NCフライス・ボール盤に代わる)1982 年当時、世界最大の工作機械生産国であった米国を抜き工作機械生産世界一の偉業を達成(2008 年までの27 年間、世界一を維持)1990 年代 複合加工機の進化1991 年松浦機械製作所が5 軸制御立型マシニングセンター「MAM シリーズ」を販売2000 年代5 軸加工機、複合加工機の一般化