ブックタイトルメカトロニクス1月号2020年
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メカトロニクス1月号2020年
44 MECHATRONICS 2020.1 日本の産業構造の変化にともなう電子機器分野の話題商品を追う第19回 <経済環境の変化でモノづくりの拠点が変わる>連載 初期の頃は欧米から技術導入しての国産化した電子機器であったものの、徐々に品質を高め、独自の工夫を加え、高品質の日本製品として世界に知られるようになった。さらに競争力のある多くの電子機器が商品化され、日本から世界に向けて発売されるようになった。 ところが経済環境の変化によって、そのモノづくりが変わっていくとともに、生産拠点も国内のみならず海外での生産へと進展した背景がある。 今回、5つの経済環境の変化でモノづくりの注力分野と製造拠点が変わったことについて紹介したい。1. 経済環境の変化 経済環境の変化は、日本のモノづくりの注力分野と製造拠点に影響した。以下、具体的に紹介しよう。1-1. 石油ショック 1973 年10 月6日、第四次アラブ・イスラエル戦争が勃発し、10月17日にはペルシャ湾岸のアラブ石油輸出国機構(OAPEC= Organization ofthe Arab Petroleum Exporting Countries)加盟6ヵ国は原油新公示価格を決定し、石油の供給制限と10月1日の公示価格より70%値上げを行った。OAPEC決定から2週間後には奈良市でトイレットペーパーの買い占めが始まり、大阪市内に飛び火し、やがて全国に広まった。これが狂乱物価を招いた第1次石油ショックのはじまりである。さらに2ヵ月後には、石油価格が4 倍にまで跳ね上がった。 日本の産業は中東から輸入する石油に頼るところが大きかったので、世界の中でも日本がその影響を強く受け、狂乱物価といわれたインフレーションが生じた。そして1974年には日本経済の実質経済成長率は戦後初めてマイナス成長を記録した。 5年後の1979年に2度目の石油ショックを経験し、インフレ、デフレ、高金利による不安定な時代となり、“ 省エネ”、“ 節電”が合い言葉になって「省エネ特定非営利活動法人 日本環境技術推進機構 青木 正光機器」、「軽薄短小化機器」の開発が進展し、マイクロエレクトロニクス革命が起こった。石油ショックは産業構造の見直しのきっかけにもなった。そして人々は、便利で快適な生活は、堅固な土台の上に組立てられていないことに気付いた。1-2. プラザ合意 1985 年9月22日、過度なドル高の是正のために米国の呼びかけで、ニューヨークのプラザホテルで先進5ヵ国(G5=日・米・英・独・仏)蔵相・中央銀行総裁会議が開催され、為替レート安定化に関して討議され、合意した内容が発表され、開催場所のプラザホテルにちなんで“プラザ合意”と言われた(写真1)。 「基軸通貨であるドルに対して、参加各国の通貨を一律10~12%幅で切り上げ、そのための方法として参加各国は外国為替市場で協調介入を行う」というものであった。 プラザ合意の狙いは、ドル安によって米国の輸出競争力を高め、貿易赤字を減らすことにあった。 1ドル232円前後で推移していた為替レートは、図1に示すように翌日から急落し、わずか一年で1ドル154 円前後になった。1~2) 円高・ドル安となり、日本の経済に大きく影響した。 円高の進展によって日本は輸出競争力を失い、海外で生産することを真剣に考えた時期であり、エレクトロニクス業界でも海外進出を模索した。輸出製品を国内で生産するのを手控え、設備投資が抑制された。この時期は海外の原材料を輸入して使用の可否を検討した時期でもあった。資金はだぶつき、土地の売買に振り向けられた。 プラザ合意の内容を平たく言えば、米・英・仏・独が日本に円高を迫ったというだけの話しに過ぎない。プラザ合意こそが、日本経済史の転換点になり、日本経済と産業界に大きな影を落とす失政となった。1-3. バブル崩壊 プラザ合意時の1985年の日経平均は12,000円台であったが、1987 年9 月には25,000 円台と2年で2倍以上に株価は上昇した。金余り現象は株式投資にも回った。 さらに1986 年頃からの地価が高騰し、好景気な状態が続いた。実際には実体のない「バブル( 泡)」のようなものであった。銀行は土地などの不動産を担保にして、積極的に融資を展開していくことになった。地価が上昇し続けるのを見て土地の価格の何倍にも相当するお金を貸し出すまでになった。「地価は下がらず永遠に上昇する」という土地神話がまかり通った時代であった。 銀行融資を受けて建設されたホテル、ゴルフ場、集合住宅などが全国各地でオープンした。大手の銀行や生命保険会社などが出資して設立された住宅金融専門会社もこの時代、建設・不動産業界に対して巨額の融資を行い、業績を飛躍的に伸ばしていった。1989 年12月29日の日経平均株価は終値で38,915円となり、史上最高値を記録した。2) しかし、そのような好景気は続かず、地価の暴落、そして公定歩合の引き上げによって市場や市中銀行に出回った金余り現象はしぼんでいき、1990 年になると株価大暴落となり、一気にしぼんだ。図2に示すように1990 年秋には20,000 円台まで下がり、1992 年3月の株価は20,000 円台を割り、バブル経済は完全に崩壊し、倒産、閉鎖などが相次き、“ 平成不況”となった。1-4. ITバブル インターネット・バブルと言われるITバブルが、1990年代初期頃から2000年代初期にかけて、米国市場を中心に起った。 1991 年にマイクロソフトからパソコンのOSとしてWindows3.1 が発売され、1995 年にはWindows95、1998 年にWindows98と相次いで発売された(写真2)。同時にアプリケーションソフトのオフィスも発売され、当時、発売前から店頭前写真1 プラザホテル(ニューヨーク) 写真2 1990年代に発売されたパソコンのOS