ブックタイトルメカトロニクス9月号2018年
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メカトロニクス9月号2018年
44 MECHATRONICS 2018.9 日本の産業構造の変化にともなう電子機器分野の話題商品を追う第3回 <日本の資源>連 載 前回は、日本の産業構造の変化について、江戸時代から第二次世界大戦までを鳥瞰した。今回は、その産業を支えるのに日本に存在していた資源が、どのように関わり、役割を果たしたかについて紹介する。1. 石炭資源 石炭の使用の黎明期は、古代ギリシャの記録によるとBC315 年には石炭が鍛冶屋で燃料として使用されていたと記録がある(写真1)。中国では、3世紀の三国時代の出版物に石炭という言葉がある。 イギリスでも5 世紀ごろには、すでに商業的な石炭採掘が始められた。石炭の黄金時代は18世紀に入ってからで、イギリスで石炭の原料炭を使って作ったコークスを使用した新しい製鉄法が確立され、鉄鋼の大量供給が可能となった。 18世紀後半には、蒸気機関が発明され産業が大きく発展し、その燃料として石炭が使用された。 イギリスで始まった製鉄、蒸気機関、石炭を中心にした大規模な産業構造の変革を「産業革命」といい、欧州を中心に各国に広がった。 石炭の確認可採埋蔵量8609 億トン(109 年分)(石油 : 53 年分、天然ガス : 56 年分)(2013年)で、2014 年の褐炭を含む世界の石炭消費量は79.2億トンと推計されている。 日本における石炭利用の起源は、16 世紀初頭で九州の筑豊地区においてであった。当時の文献に「燃石(もえいし)」が発見されたという記録が残されている。 17 世紀後半には、石炭は筑前・長門地区等で薪の代替として家庭用燃料など自家消費を主たる目的として利用されていたことが報告されている。 瀬戸内海沿岸は、全国的にも晴天日数が多いことから有数の塩田地帯となり、製塩業が栄えた。わが国では地質的に岩塩などは産出しないため、先人たちは海水から塩をつくる製法に工夫を凝らしたとも言われる。 古くは縄文・弥生時代から塩を海水から得ていた。江戸中期の元禄の頃には、瀬戸内海沿岸で日本の製塩の50%を生産するようになり、江戸末期には80~90 %を占めるまでになったと言われている。 製塩業が瀬戸内海地方で発達に伴い、18 世紀初頭、瀬戸内海地方で製塩用燃料として、石炭が使用され始め石炭産業として確立し、“ 石炭”、という資源が活かされるようになった。 石炭には、褐炭、瀝青炭、無煙炭などがあり、表1のように質の違いがあり、用途が異なる。 “石炭”は黒いダイヤとも言われ、日本の復興の主役として活躍した。石炭を掘り出す炭鉱は、北海道では石狩、釧路、夕張が、福島では常磐が、九州では筑豊などの炭田が存在し、全国に1047ヵ所あり、炭鉱労働者数も最大時には45万人以上が従事し、国内で採掘され、国産の石炭を使っていた。1) しかし、「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭が、価格が1/3 の海外炭との競争に敗れ、さらに使い易い石油の登場により、炭鉱の縮小や閉山へと進展していった。 かつて1940 年のピーク時には5631 万トンの最高出炭量となり、戦後では、1961 年には5541万トンの国内石炭生産量であったが、流体革命もあり、石油に代わり石炭は1995 年には634 万トンへと国内生産は減少した。 そして、「月が出た出た 月が出た三井炭鉱の上に出た」という盆踊りでお馴染みの福岡県大牟田市の三井三池炭鉱が1997 年3月に閉山し、操業124年の歴史に幕を閉じた。 石炭国内生産量も2015 年には、126 万トンまで落ち込み、国内に多くの石炭が埋もれているにも拘わらず、コストが合わず海外産の石炭を使用している状況で、今や99 %が主にオーストラリア、インドネシア、中国、ロシアなどから輸入して使用されているのが現状である。 さて、コークスや石炭化学の素ともいえる“石炭”、セメントの原料となる“ 石灰石” などの鉱物資源が日本にあった。火山の多い日本は、硫黄も産出し、火薬の原料としても利用された。無尽蔵にある“ 石灰石”がセメントの原料だけではなく“消石灰(水酸化カルシウム)”として利用された。 火山灰が多くて、日本全土は酸性土壌であった土壌を硝石灰で中和して畑を潤すことができた。畑には桑を植えて蚕の餌として利用ができた。 明治以降に急速な経済発展を経験した戦前の日本は、経済発展にともなうエネルギー需要の増加により、主要なエネルギーであった木材(薪炭)の価格が高騰し、1900 ~1910 年頃に産業用の主要エネルギーは木材から石炭に転換した。当時、石炭の殆どは国内で生産されており、国内で生産された石炭は、戦後の「高度成長」期に石油にとって代られるまで主要なエネルギーとして利用されてきた。 なお、褐炭を豊富に埋蔵するオーストラリアでは、褐炭から水素を生成して、その水素を日本に運び込み、日本の水素社会の構築に役立てる国家プロジェクトが進展している。2. 生糸資源 日本は資源の少ない国であったが、唯一、再生可能な資源は蚕(かいこ)であった。桑畑と養蚕農家がいたる所にあり、蚕から繭(まゆ)をつくり、生糸を生産した。古くは16~18世紀の間の約100年間に生産量が4倍増となるなど問屋制家内工業を主体として定着しており、明治以降、基幹産業として発展する素地ができていた。 幕末から明治初年の主要な生糸産地は、群馬県、長野県、福島県、山梨県、東京都・八王子市であった。横浜港が開港したのが 1859 年で、1859 年8月より本格的な貿易を開始し、「生糸」の輸出から始まった。 当時、ヨーロッパで微粒子病によって養蚕に壊滅的な被害が出ていたため、日本はヨーロッパ向けの蚕種輸出に積極的に取り組み、外貨を稼ぐことになった。その後、「お茶」、「蚕種」が輸出され、輸出により貴重な外貨を獲得した。当時の輸出品の割合は、生糸/蚕種/お茶/その他(海産物・漆器等)=50/ 20/ 15/ 15で生糸が半分も占めていた。生産された生糸や織物を輸送するために、1889年に「両毛線」、そして1908 年に「横浜線」が、それぞれ敷設された。 1872 年10月、官営の富岡製紙場を建設し、当時、最先端の世界最大規模の工場として稼働を開始した。富岡製糸場の繭倉庫は南北 104.4mにもなる当時では大規模な建物であった(写真2)。こ特定非営利活動法人 日本環境技術推進機構 青木 正光表1 石炭の種類と特徴石炭の種類 褐炭瀝青炭無煙炭特徴 水分が多い 燃料としては劣質 良質の燃料 コークスの原料にもなる 豆炭や練炭の原料 炎を出さすに燃える写真1 石炭写真2 富岡製糸場・東繭倉庫(南北104.4m)