ブックタイトルメカトロニクス7月2018年

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概要

メカトロニクス7月2018年

MECHATRONICS 2018.7 45へと繋がった。これらの藩は、次の世代に引き継げる人材作りや制度をつくり、そして江戸時代から明治時代に移行する日本の転換期を大いに支えた。 幕末維新期の佐賀藩には、第10代藩主・鍋島直正は精錬方という科学技術の研究機関を創設し、鉄鋼、加工技術、大砲、蒸気機関、電信、ガラスなどの研究・開発・生産を行い、幕末期における最も近代化された藩の1 つとなった。1849 年に日本最初の製鉄所を完成させ、さらに黒船来航の前年にあたる1852 年には築地反射炉を本格的に稼動させている。 徳川幕府の外交政策は、基本的に鎖国政策をとっていたものの実際には長崎にある出島経由で、世界情勢は把握していたともいわれ、中国、朝鮮、オランダとの貿易は一部開放しており、使節の来訪もあった。 そんな中、1853 年、アメリカからペリー提督が率いる4隻の艦隊が浦賀に来航したことによってひっくり返るような騒ぎとなった。横須賀市久里浜には、ペリー提督が上陸したのを記念して碑(写真4)が建てられている。また、横浜開港の功績をたたえて井伊直弼の銅像が掃部山公園内にある。 徳川幕府200年の鎖国から開国を迫った理由には、実は、捕鯨船が薪等の補給を得るためでもあった。 1854 年、ペリー提督は1853 年に引き続いて来航し、結果的には江戸幕府とアメリカ合衆国との間で「日米和親条約」(神奈川条約とも呼ぶ)が締結された。この時は条約を締結したに留まり、開港するまでには至らなかった。 条約が結ばれた場所は、横浜開港資料館近くの開港広場に日米和親条約調印の地碑(写真6)が建っている所である。 この日米親和条約全12条のうち、表2に示すように実は第2条にその裏付ける記述がある。「薪、水、食料、石炭、欠乏の品を補給するために下田・箱館の二港を開港する」という条文である。しかも、書かれた最初に「薪」があげられている点が興味深い。「薪」が重要な補給物資であり、??を焚く、つまり、鯨油を作るための必須の燃料であったと思われる。 さらに捕鯨船の補給基地としていた点を裏付ける資料として“ 函館市史”がある。函館市史によると1855 年3 月の開港から翌1856 年までに、外国船の入港は43 隻を数え、米国船は23 隻であり、その内訳は捕鯨船11、商船7、軍艦4、不明1となっている。他にイギリス船、フランス船、ロシア船などが入港しているが、捕鯨船は1 隻もなく、すべて軍艦であった。 この資料から、当時の「箱館」は北太平洋における米国捕鯨船の補給基地や避港地となっていたことが裏付けられる。2) 1853 年のペリー来航以来つづく列強諸国の圧力によって、日本の状況は一変した。社会状況が大きく変化し、混乱の中で江戸の幕藩システムの多様性の中から長州藩と薩摩藩が生き残り、近代日本を創り出した。 そして、混乱を生き抜いた薩摩藩と長州藩が中心となり、列強諸国に対抗すべく、効率のよい強力な中央集権国家体制を創りあげ、当時、欧州の各国から植民地化されていたアジア諸国の中で、日本だけは独立した近代国家として生き残ることができた。3)<参考資料>1.玉川大学教育博物館資料  http://www.tamagawa.ac.jp/museum/  archive/1995/054.html2.武井 豊,”『鯨』と『開港』” エレクトロニクス実装技術  Vol.19 No.11 p31(2003)3.年次経済報告「新しい世の中2.が始まる <明治以来の  日本経済>」経済企画庁資料(2000年7月)日本の産業構造の変化にともなう電子機器分野の話題商品を追う第1回 <江戸時代の変遷>写真5 日米和親条約調印の地碑表1 江戸時代の略史表2 日米和親条約の概要年 度 出 来 事1603 年  徳川家康が江戸幕府を開く1610 年  農民の治部・内蔵が黒岩山 ( 備前楯山)で銅鉱の露頭を発見し、足尾鉱山が開坑1622 年 我が国最初の数学「割算書」を発行1633 年 徳川家光が第一次鎖国令を出し、奉書船以外の渡航を禁止する1651 年  足尾銅山で銅を産出し、江戸城、日光東照宮、芝増上寺の銅瓦が屋根に使用される1681 年  関 孝和が円周率を小数点11 桁まで正確に計算1688 年  津田助左衛門が二梃天符目覚付袴腰櫓時計を製作1690 年  別子銅山を発見し、1691 年に住友により採掘を開始1700 年初頭  長浜地方で麻蚊帳の生産を開始1764 年  江戸幕府が清国への輸出向け俵物三品 ( 煎海鼠、乾鮑、鱶鰭) の増産を奨励1800 年  伊能忠敬が測量を開始し、21年後に精巧な日本地図を完成させる1838 年~1853 年 田中久重が「弓曳童子」、「茶運び人形」、「文字書き人形」のからくり人形を製作1849 年  佐賀藩が日本最初の製鉄所を完成1852 年  佐賀藩が築地反射炉を建設し本格的に稼動1853 年 ペリー提督が率いる4 隻の艦隊が浦賀に来航 田中久重が佐賀藩の製錬方に赴く1854 年 ペリー提督が再航、江戸幕府とアメリカ合衆国との間で「日米和親条約」( 神奈川条約 とも呼ぶ)を締結、下田と函館を開港することが条件となっている1858 年 彦根藩主 井伊直弼が大老の職につく 日米修好通商条約を締結1858~1859 年 江戸幕府の諸策に反対する者たちを弾圧した事件( 安政の大獄)1860 年  桜田門外の変( 水戸浪士らによって井伊直弼を殺害)1863 年  薩摩藩と大英帝国との戦争が起こる ( 薩英戦争)1864 年  田中久重が久留米藩の技術顧問として招かれ、アームストロング砲を製造1865 年 島津藩が機械工場(尚古集成館)を建設1868 年 明治維新日米親和条約第1 条  日米間は人、場所に関わらず永久的に友好関係にあること第2 条 下田( 即時)と函館(1 年後)を開港し、この2港においてアメリカは薪、水、食料、石炭、 欠乏の品などの物資供給を受けることができること第3条 アメリカ船舶が難破や座礁した場合、日本は乗組員の身柄を保護し、アメリカ側に引き 渡すこと。その際の費用は請求しないこと第4 条  アメリカ人遭難者の権利は他の国と同様に自由であること第5条 下田、函館に居留するアメリカ人は、長崎に居留するオランダ人および中国人とは異な り、その行動を制限されないこと第6 条 他に物品のやりとりや取り決めなど必要とされる事態が発生した場合は日米間で慎重 に協議すること第7 条  下田、函館においては、金貨、銀貨での購買や物々交換をすることができること第8 条  物品を調達する際は日本の役人が世話をすること第9 条  アメリカに片務的最恵国待遇を与えること第10 条  悪天候など特別な場合を除き、アメリカは下田、函館以外へ来航してはならないこと第11 条 両国のどちらかが必要とした場合、締結日より18ヵ月以降たてばアメリカ政府は下田 に領事を置くことができること第12条 両国はこの条約を守る義務があること。両国は18ヵ月以内にこの条約を批准すること