ブックタイトル実装技術6月号2021年特別編集版

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概要

実装技術6月号2021年特別編集版

25プリント配線板の、黎明期から今日まで(その1)プリント配線板製造の動向を探る 図1は終戦と日本社会の復興時代とその後の高度成長時代の出来事、世相と、新らしく登場する電子機器、それを支える電子機器の素子と実装技術を示した表である。 1945 年の敗戦で日本はアメリカの占領下におかれ、廃墟から復興がはじまった。1953 年、白黒テレビの放送が始まる。当時、受像機は高価だったため、駅待合室の高所に置かれたテレビを大勢の人が見上げたものである。テレビ、電気洗濯機、冷蔵庫はアメリカンライフの象徴だったが、日本の庶民には手のとどかない、あこがれの製品で「三種の神器」と呼ばれた。 この時期は貧しいながらも、世の中はこれから良くなっていくという明るい雰囲気があふれていた。女性に選挙権が与えられたのはやっと終戦1 年目(1946 年)のことだが、その後の女性の意識の高まりと元気には目を見張った。女人禁制の大峰山に女性だけで強行登山する、エベレスト登頂に挑戦するなど世間を賑わし、ミニスカートがブームになった。「戦後、強くなったのは靴下と女」が流行語となった。女性のストッキングは素材が絹糸からナイロンに換わって寿命が格段に伸びたのである。皇太子ご成婚(現上皇と美智子妃の結婚)は開かれた皇室のイメージもあって「ミッチーブーム」となった。ラジオドラマ「君の名は」が大ヒットし、「よろめき」が流行語となったのは終戦後5 年?10 年で白黒テレビが普及し始めた頃であった。 日本人の平均寿命は1950 年の男性58 歳、女性61 歳から、1980年には男性73 歳、女性79 歳へと大幅に伸びた。   電子機器の構成の変遷 戦前のラジオ、無線通信での電子回路の主役は真空管だった。戦後も白黒テレビまでは真空管が使われた。それがトランジスタの発明(1947 年)で真空管は数年のうちにトランジスタに駆逐されていった。いち早くトランジスタラジオ(1955 年)が発売され、テレビもトランジスタ化された。当時のテレビメーカーのコメントに、トランジスタ化で「テレビの故障が劇的に減った」とあったのを記憶している。国産コンピュータTAC(注1-1)は真空管70 00本も使用する大規模コンピュータで、記憶装置にはブラウン管(これも真空管)が使われた。1950 年ころに開発がはじまったが完成までに9年もかかった。一番苦労したのは真空管の保守だったといわれる。真空管はアナログ素子であり時間と共に特性が変化する。また真空管はフィラメントを用いるので寿命があり、その交換は避けられなかったのである。 トランジスタ化で電子システムの信頼性は格段に向上した。それから数年後、1 枚のシリコン基板上にトランジスタ以外の電子部品(R、C)と配線も同じプロセスで作りこむ技術(IC技術)が特許化された。電子回路に必要な素子がすべて1 枚のシリコン基板上に作り込めるという発明で、以後の電子回路の作り方が革命的に切り替わった(これを「モノリシック集積」と呼ぶ)。当時の新聞には「IC革命」のタイトルの特集記事が載り、電子回路はいずれすべてICだけになっていくだろうと予想された。実際、その後開発された電気製品の機能素子はすべてIC(LSIを含む)になった。しかしいずれ要らなくなると予想されたプリント配線板は生き残り、ICと並んで高度成長していった(本稿「4.」項参照)。 真空管がICに替わってもプリント配線板が残ったのはなぜか。まずサイズの小さいトランジスタ、ICを支持する台として不可欠だった(今も使われる用語「基板」もそこからきている)。真空管の場合はアルミシャーシにソケットを取り付けて真空管を差し込み、シャーシ裏面にはんだ付けで配線した(写真1)。錯綜する配線はジャングル配線と揶揄された(写真2)。多数箇所の配線を手作業で行うため仕上がりのばらつきが大きくなり、装置の信頼性を低下させた。小林 正写真1 真空管TV 写真2 ジャングル配線3