ブックタイトル実装技術12月号2018年

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概要

実装技術12月号2018年

290「埋没林」と「名所」 北陸の富山県の魚津港近くの海岸に埋没林博物館がある。この魚津埋没林は氷河期以降の海水面の変動や急流河川の氾濫などが長い時を経てもたらした太古のスギ原生林が滅び去った後の大自然の痕跡である。 1930年に魚津港改修工事の際に海底で最初に発見され、発掘された樹根と樹幹は、埋没林博物館で乾燥状態で展示されており、触ることもできる。さらに1952年に発掘された樹根に関しては水中に展示されおり、これは残念ながら触ることはできない。 埋没林博物館によると埋没林とは、文字どおり「埋もれた林」のことで、埋没林は日本、あるいは世界の各地で発見されている。 林が埋もれる原因には、色々な原因が想定される。 たとえば、火山の噴火に伴う火山灰や火砕流、河川の氾濫による土砂の堆積、地すべり、海面上昇などが考えられる。 埋没した年代もさまざまで、数百年前から数万年前のものまであり、魚津埋没林は、約3,000年前、片貝川の氾濫によって流れ出た土砂がスギの原生林を埋め、その後海面が上昇して現在の海面より原生林が下になったと考えられている。 発見された樹木の多くはスギで、大小約200ほどで、もっとも大きな物では直径4m、周囲12mもある。最近の例では、2016年にも発掘されている。 埋没林は、その森林が生育していた場所全体が地下に密閉され、木の株だけでなく種子や花粉、昆虫などが残っているため、過去の環境を推定する大きな手がかりとなるので、貴重な痕跡をつかむことができる。この魚津埋没林は1936年に国の天然記念物に、さらに1955年には特別天然記念物に指定されて保護されている。 また、島根県にも埋没林がある。こちらは火山の噴火で縄文時代に繁っていた林がそのまま埋もれた埋没林である。当時の森林をそのまま閉じ込めた、いわば「縄文のタイムカプセル」となったものだ。大きいものでは高さ12m、根回り10mを超える幹が直立している。このように森林が保存されている例は世界的に珍しいらしい。ここは約3,600年前の三瓶山の噴火により埋没したとみられ、スギが圧倒的多数を占め、トチノキ、ケヤキ、カシの仲間、ニレの仲間などの広葉樹が発掘されている。 この場所は、三瓶小豆原埋没林と命名されている。1983年及び1999年に発掘され、その全貌が判明した。 現在、公園として整備され、地下展示室で太古の森を間近に見学することができる。 発見された木数は30本で、最大径木は2.5m(スギ)、最長木は12.5m(スギ)、最大年輪数は636本(スギ)がある。ここも2004年に国の天然記念物に指定されている。 さて、魚津博物館の3階と屋上は、実は、蜃気楼の見学場所となっている。この蜃気楼は、千年も年をとったハマグリの吐く息が起こすといわれて信じられていた。春から夏にかけて現れる蜃気楼は、幻想的でもあり、初めて見る人にとっては不思議な体験となる。この富山湾には二つの不思議に出会えるのである。北陸に行く機会があれば、ぜひ、この不思議な、そして人々を魅了する蜃気楼と埋没林を体験してはいかがだろうか? そして北陸の海を眺めながら太古の浪漫に馳せてはいかがであろうか? また、三瓶の埋没林の近くには世界遺産にも登録された石見銀山がある。三瓶の埋没林から石見銀山まで車で、35分で行ける距離にある。 石見銀山は、1526(大永6)年に九州博多の豪商神屋寿禎によって発見されたもので、それ以来、約400年にわたって採掘された日本有数の鉱山である。 16~17世紀の約100年間は、大量の銀が採掘され、大内氏、尼子氏、毛利氏といった戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源として活用されたという。 石見銀山は島根県大田市大森町に中心があり、銀を産出したのは、柵内と呼ばれる約300ヘクタールにもなる。大森町には1km以上の町並みが連なっている。幕府領だった江戸時代から戦前までの建物が残り、銀山を管理した武士の家と町民の民家が混在した町並みは珍しい例ともいわれる。階級に関係なく、武家の家と民家が軒を並べた珍しい場所なのだ。 この石見銀山は、銀を採掘した坑道を間歩(まぶ)と呼び、大小を併せて、露天掘りを含めて600以上が確認されている。 龍源寺間歩は一般公開されており、間歩を通り抜けることができるようになっている。間歩は手掘りで実施され、近くには、採掘工具用の鉄の生産地として宅野がある。採掘のみならず精錬所跡も残っている。大規模に実施された石見銀山は、17世紀前半頃は年間約38トン(1万貫)も産出されていたという。世界の産出銀の約1/3を、この石見銀山が担っていたという。 戦国時代に銀山争奪のために築かれた山吹城(標高:414m)、矢滝城(標高:634m)、石見城(標高:153m)などの城跡、銀や物資の輸送に使われた銀山街道なども遺跡として残っており、間歩や町並みを含めてこれらが世界遺産の対象となった。 石見銀山は佐摩村にあったことから「ソーマ(Soma)銀」と呼ばれて海外にも数多く輸出され、中国、朝鮮半島などのアジア諸国、ポルトガル、スペインなどのヨーロッパ諸国との交易をする上で大きな役割を担った。 ポルトガル人は、石見銀山の銀を目的に日本を目指していたものの、種子島の西之浦湾に漂着した中国船に乗っていた商人が鉄砲を持っていたことから種子島に鉄砲がもたらされたという。 また、ポルトガル人宣教師ルイス・ティセラが地図を作成し、16世紀後半にヨーロッパで出版された地図には石見の位置に「Hiwami」(石見国)と記載され、その上部には、ラテン語で「Argentifodinae」(銀鉱山)とも記載されている。地図にも記載され、石見銀山が遠く海外まで知れ渡っていたのである。それほどの銀の産出量を誇っていたのである。 北陸と同様、山陰に行く機会があれば、4,000年前の埋没林と江戸幕府の財源にもなった石見銀山に立ち寄って昔の思いはせるのもいいかもしれない。 なお、石見銀山は自然との共生で栄えた銀鉱山である。それを理解していただくために、「石見銀山方式パーク&ライド」を採用している。400台駐車できる駐車場に車を置き、石見銀山世界遺産センター駐車場から代官所跡まではバスで移動することになっている。交通規制をして環境を配慮した見学方式である。これも実に良い方法である。39